参拝日:令和5年(2023年)6月14日
天下門
大きな門です。
総 門
建長寺は、1253年、禅によって国の興隆をはかるため、執権(しっけん=regent=鎌倉幕府の職名。政務を統轄した)北条時頼公の願いにより、中国の禅僧である蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が開いた、日本で最初の純禅【禅と訳してよい】の大道場です。
建築は、総門・三門・仏殿・法堂(はっとう=講堂)・方丈(本堂,客殿,住職居室を兼ねるもの)が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。
今の総門は、1783年に京都の寺である、般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)で建てられたものを1940年に移築しました。
総門に掲げられた額の「巨福山」(こふくさん)」という字は「大きな福をもたらす寺」という意味で、中国僧で建長寺第十世である一山一寧禅師(いっさんいちねいぜんじ)が書いたものです。
出典:建長寺ホームページ
建築は、総門・三門・仏殿・法堂(はっとう=講堂)・方丈(本堂,客殿,住職居室を兼ねるもの)が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。
今の総門は、1783年に京都の寺である、般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)で建てられたものを1940年に移築しました。
総門に掲げられた額の「巨福山」(こふくさん)」という字は「大きな福をもたらす寺」という意味で、中国僧で建長寺第十世である一山一寧禅師(いっさんいちねいぜんじ)が書いたものです。
出典:建長寺ホームページ
総門を潜って直ぐ右手に拝観受付が有り拝観料を納めます。
拝観料は
大 人 500円
小中学生 200円
朱印料は500円でした。(2023年6月現在)
三門までの参道
こちらも紫陽花が満開です、色も白、ピンク、赤、紫、青とよりとりどりで綺麗に咲いています。
三 門(重要文化財)
この門をくぐることによってあらゆる執着心から解き放たれることを意味します。
創建者である蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の言葉に、「建長寺は、禅をまなぶすべての人に開け放たれている。この境内には人を差別しない清風が、いつも吹いている」とあり、建長寺はあらゆる人々、修行者(しゅぎょうじゃ)に門を開放している事を表しています。
楼上(門の上部)には、釈迦如来(しゃかにょらい)・十六羅漢(じゅうろくらかん)・五百羅漢(ごひゃくらかん=修行を完成された人)を安置しています。
この門は1775年に万拙硯誼(ばんせつせきぎ)和尚などの努力によって再建されました。創建当初は三門後方左右に大坐禅堂(だいざぜんどう)、大食堂(だいじきどう=話をしたり、音をたててはいけない食堂)がありました。
出典:建長寺ホームページ
創建者である蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の言葉に、「建長寺は、禅をまなぶすべての人に開け放たれている。この境内には人を差別しない清風が、いつも吹いている」とあり、建長寺はあらゆる人々、修行者(しゅぎょうじゃ)に門を開放している事を表しています。
楼上(門の上部)には、釈迦如来(しゃかにょらい)・十六羅漢(じゅうろくらかん)・五百羅漢(ごひゃくらかん=修行を完成された人)を安置しています。
この門は1775年に万拙硯誼(ばんせつせきぎ)和尚などの努力によって再建されました。創建当初は三門後方左右に大坐禅堂(だいざぜんどう)、大食堂(だいじきどう=話をしたり、音をたててはいけない食堂)がありました。
出典:建長寺ホームページ
梵鐘(国宝)
仏殿(重要文化財)
建長寺の本尊・地蔵菩薩(天国から地獄に至るまで、すべての生物を救い、成仏させると誓う菩薩)を安置。
北条時頼と蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の、迷いの中から救い悟りを得るという願いが込められています。
毎月1日・15日の祝聖(しゅくしん=天皇の寿命を祈祷する法要)、23・24日の開山例月忌(かいさんれいげつき=蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の命日と同じ日の法要)、開山忌(かいさんき=蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の命日と同じ月日の法要)などの法要がここで行われます。
現在の建物は、創建当初より4代目のものといわれ、東京の芝の増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公(ひでただこう)夫人(お江の方)の霊屋(おたまや=墓)を建長寺が譲り受けました。
仏殿前の庭園の柏槇(びゃくしん)は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が植え、樹齢760年です。
出典:建長寺ホームページ
北条時頼と蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の、迷いの中から救い悟りを得るという願いが込められています。
毎月1日・15日の祝聖(しゅくしん=天皇の寿命を祈祷する法要)、23・24日の開山例月忌(かいさんれいげつき=蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の命日と同じ日の法要)、開山忌(かいさんき=蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の命日と同じ月日の法要)などの法要がここで行われます。
現在の建物は、創建当初より4代目のものといわれ、東京の芝の増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公(ひでただこう)夫人(お江の方)の霊屋(おたまや=墓)を建長寺が譲り受けました。
仏殿前の庭園の柏槇(びゃくしん)は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が植え、樹齢760年です。
出典:建長寺ホームページ
法堂(はっとう)(重要文化財)
昔は建長寺全体が修行道場であり、敷地にいる僧侶全員がこの法堂に集まって、住持(=住職)の説法を聞きました。388人の僧侶がいた記録があります。現在は法要・講演・展覧会などに使われており、修行僧は西来庵(せいらいあん)で修行しています。
この建物は1814年に建長寺派の寺院により再建されたものです。
関東最大の法堂で、現在は千手観音(=迷いの中から救い悟りを得るために偉大な働きを持つ観音)を本尊としています。天井の雲龍図(うんりゅうず=龍が描かれた絵)は建長寺の創建750年を記念して、小泉淳作(こいずみじゅんさく)画伯によって描かれました。
出典:建長寺ホームページ
この建物は1814年に建長寺派の寺院により再建されたものです。
関東最大の法堂で、現在は千手観音(=迷いの中から救い悟りを得るために偉大な働きを持つ観音)を本尊としています。天井の雲龍図(うんりゅうず=龍が描かれた絵)は建長寺の創建750年を記念して、小泉淳作(こいずみじゅんさく)画伯によって描かれました。
出典:建長寺ホームページ
唐門(からもん)(重要文化財)
桃山風(ももやまふう)向唐破風(むこうからはふ)という、16世紀後半の日本の屋根の建築様式で作られた、漆塗りの四脚門(よつあしもん=4つの脚がある門)です。技巧を凝らした金具が各所に使用され、仏殿の装飾技法とよく似ています。
1628年、東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠(ひでただ)夫人(お江の方(おごうのかた))の霊屋(おたまや=墓のお堂)の門として建てられました。その後、1647年、仏殿・西来門(せいらんもん)と共に建長寺に寄附され、方丈(龍王殿)の正門として使用。
2011年、解体修理がほどこされ、輝きをとりもどしました
出典:建長寺ホームページ
1628年、東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠(ひでただ)夫人(お江の方(おごうのかた))の霊屋(おたまや=墓のお堂)の門として建てられました。その後、1647年、仏殿・西来門(せいらんもん)と共に建長寺に寄附され、方丈(龍王殿)の正門として使用。
2011年、解体修理がほどこされ、輝きをとりもどしました
出典:建長寺ホームページ
方丈(龍王殿)
方丈では大学生と思しき50人ぐらいの人たちがお坊さんの説法を聞いている最中の見学になりました。そっと静かに。
方丈とは昔は住持(じゅうじ=住職)が居住する場所でした。現在は法要・坐禅・研修の場所として使われています。
この建物も、総門と同じく京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)より1940年に移築されました。
1732年に建てられ、元は皇室のお位牌を安置するためのものでした。
出典:建長寺ホームページ
この建物も、総門と同じく京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)より1940年に移築されました。
1732年に建てられ、元は皇室のお位牌を安置するためのものでした。
出典:建長寺ホームページ
得月楼
得月とは月の景趣を十分に眺めるという意味で、李白も「酒を促して得月を喜ぶ」と詠んだ。池辺に二階の楼閣形式で作成された中国の園林を模して、日本的な景観を生み出した。玄関ともども、平成15年の建長寺創建750年慶讃にあたって、約590年ぶりに復興された。
出典:建長寺ホームページ
出典:建長寺ホームページ
参道脇にはいろんな色の紫陽花が綺麗に咲いていました。
建長寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。
正式には巨福山建長興国禅寺と号する。
鎌倉時代の建長5年の創建で、本尊は地蔵菩薩。
開基は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。
鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。 ウィキペディア
拝観時間・拝観料
8:30~16:30
拝観料は
大 人 500円
小中学生 200円
アクセス
〒247-8525
神奈川県鎌倉市山ノ内8